カンザキイオリ『願い歌』歌詞の意味を考察・解釈

常識なんてわからない 人の痛みもわからない
そもそも自分の痛みも うまく言葉にできない
人間になりそびれた そう思う方が正しい
形のないことばかり 染みるように積もるばかり

すれ違う人全て
自分と同じことを考えている
そうだったらいいのにな
そうじゃないのはなんでかな?

僕らはさ 願ったりさ
叶わないのなら歌ったりする
そのくせにさ 馬鹿にしてさ
わかり合うフリしてガムを吐く
愛した人 許した人
その全ても時に零れ落ちる
心が荒んでいくのがわかる
でも今は僕ら叫ぶしかない

学校なんて嫌いだ 仕事なんて大嫌いだ
本当に求めるものは 一体どこにあるんだ
やりたいこともできない それはお前のせいだ
そうして嘆く合間に ゆるやかにシワを重ねた

歳をとるたび 思い出すんだ
裏切られたこと どうしようもなかったこと
楽しい思い出もあったんだよな
そう思えないのはなんでかな?

僕らはさ 願ってもさ
叶わないことばかり愚痴りあって
そのくせにさ 燻るばかり
口だけだなんて馬鹿にするなよ
夢を知らないだけなんだよな
今が一番好きなんだよな
泥だらけの肌で渇望する
姿を馬鹿にするな

願うって信じた分だけ 無様だって笑うよな
そんなのわかってるんだよ 願いたいから願うんだよ
例えば僕でいるために もしくは君を愛するために
あるいは人間らしさを噛みしめるために

僕らはさ 願ってもさ
叶わない日々に妥協もするよ
見下される 馬鹿にされる
それでも這いつくばっているのさ
僕らはさ この選択が
間違いじゃないと誓って言う
「この心だけは濁せやしない」
「だからこそ僕らは叫ぶんだ」

僕らはさ

カンザキイオリ『願い歌』の概要

今回は有名ボカロPであるカンザキイオリさんの楽曲『願い歌』の歌詞考察をしていきたいと思います。

今作『願い歌』から筆者が特に感じ取った点は以下の通りです。

・アーティストと参加者の切なる願い

後の部分でどんな願いが歌詞の中で伝えられているか、参加者とは誰かをお話したいと思います。

まず初めに楽曲紹介です。

『願い歌』はカンザキイオリさんの楽曲でありドラムをイノウエケンイチ(長靴をはいた猫)さんが担当しています。
ドラムを依頼するのに自分を奮い立たせた様子で。。

2020年4月25日に『願い歌』のMVがネット上で公開されました。
動画再生回数は公開から2週間近く経過した現在で14万を超える人気を見せています。

MVは白い背景に縦書きのテロップが流されるという非常にシンプルな構成でした。
それはまるで文集を読み上げているような感覚でした。

曲調にも触れておきたいと思います。
イントロでしっとりと奏でられるピアノは切なさや侘しさを伝えてくれました。
しかし続くギター&ドラムは1音1音しっかり打ちつけるように奏でられています。

これは人の願いや葛藤が弱くなったり強くなったりする様子を表現していると受け取りました。

それではさっそく気になるタイトルや歌詞全体の意味について考察していきましょう。

『願い歌』の意味とは

今作『願い歌』の制作に関連したカンザキイオリさんのコメントを紹介しておきます。

願い歌 展示会の〜心の叫びコーナー〜から、発想を得て製作した曲です。 自分も実際に見に行って、いろんな人の叫びが見れました。参加してくださった皆様、ありがとうございます。 皆様と繋がっていること、同じく悩んで、戦っていることを信じて、この曲を送ります。 明日20時、よろしくどうぞ。

https://twitter.com/kurogaki0311/status/1253610666901991424

カンザキイオリさんによる展示会「カンザキイオリ展」が、東京・渋谷スペイン坂にあるライズビルで2月8日から3月8日に渡って開催されていました。

2月8日のツイッターでは事前に次のような計画があることを告知していました。

「心の叫びを書いてください」コーナー こんなのがあったら面白いなってスタッフの方に言って見たら、実現することができました。 嫌いな人のこと、好きな人のこと、学校がだるいとか、仕事辞めたいとか、なんでも描いてくれると嬉しいです。 これを元に新曲を作ったりするかも?

https://twitter.com/kurogaki0311/status/1226124261179285506

2つのコメントから今作『願い歌』の歌詞が「カンザキイオリ展」参加者の願いで構成されていることを理解できます。

また当然ながらそこにはアーティストであるカンザキイオリさん自身の願いも組み込まれています。

ご自身でも「人が嫌い&あまり人と関わりたくない自分」と述べていました。
歌詞のやや消極的で不器用なフレーズは自分が実際に抱いた葛藤や願いなのではないかと解釈しました。

ですから前述で今作『願い歌』は「アーティストと参加者の切なる願い」を歌っていると考えた次第です。

『願い歌』歌詞の意味

自分は人間なのだろうか

常識なんてわからない 人の痛みもわからない
そもそも自分の痛みも うまく言葉にできない
人間になりそびれた そう思う方が正しい
形のないことばかり 染みるように積もるばかり

1番の冒頭では自分の不完全さを痛感している人について歌われています。

常識の認知、人への感情移入、自己の感情伝達などにおいて自分は人並みに機能していないと感じているのでしょう。

この部分から予想される心の叫びコーナーの書き込みには次のようなものがあったかもしれません。

・親や先生から「常識だろ」と責められます。常識って誰が決めたんですか。

・友達から悩み相談されたのですが、いまいちピンときませんでした。

・泣きたいくらい悲しいのに誰にも相談できず辛いです。

そう書き込みした人たちは共通して「人間になりそびれた」と自分を責めたのかもしれませんね。
カンザキイオリさんご自身もそのように何度も感じてきたのかもしれません。

「形のないことばかり」とは原形のない「悲しみ」「劣等感」「葛藤」などを指すと考えました。
それらが長きに渡り「染みるように積もる」つまり心の奥底に深く染みついたことを表現しているようです。

相違=不仲

すれ違う人全て
自分と同じことを考えている
そうだったらいいのにな
そうじゃないのはなんでかな?

ここでは人の考え方は同一のものであるのが望ましいという考えが綴られています。

この考えは有名な金子みすゞ さんの作品「私と小鳥と鈴と」や「十人十色」が伝える考えと対照をなすものです。

考え方が同一のものであることを望む、つまり「同じ考えだったらいいな」と願う背景を考えてみましょう。

誰しも人間関係が円滑に進まないとストレスを抱え疲れてしまいます。
考え方の違う人とは仲良くなれないのだと考え始めるでしょう。

そうなるとストレスを感じないように楽な交際を求めるようになります。
考えの合う人とだけ付き合うようになっていくのです。

確かにみんな自分と同じ考えなら話をするのも聞くのも苦にならなそうです。

渇いた心は願い歌う

僕らはさ 願ったりさ
叶わないのなら歌ったりする
そのくせにさ 馬鹿にしてさ
わかり合うフリしてガムを吐く
愛した人 許した人
その全ても時に零れ落ちる
心が荒んでいくのがわかる
でも今は僕ら叫ぶしかない

ここでは人間の不器用さが歌われています。

歌詞の最初では、願いや歌で表現するという積極的な面が綴られています。
しかし続く部分では、他人を馬鹿にし愚痴を吐くという消極的な面が取り上げられています。

ここから人間の不器用さ、そして本音と建前などの感情も読み取ることができます。

不器用に振舞ってきた結果として「愛した人 許した人」を徐々に失っていったことも綴られています。
そうしたことを経験すると心は荒んでいき人間不信にすらなるかもしれません。

自分がダメな人間であると痛感するも、問題点や改善点を適切な言葉で表現することはできません。
今は自分の願望を歌にして赤子のうめきのように伝えることに必死なのです。

責任転嫁と意義の喪失

学校なんて嫌いだ 仕事なんて大嫌いだ
本当に求めるものは 一体どこにあるんだ
やりたいこともできない それはお前のせいだ
そうして嘆く合間に ゆるやかにシワを重ねた

2番の初めでは日常生活のさまざまな面で感じる嫌悪感が歌われています。

「学校」「仕事」が心痛となっている人たちが沢山いるのでしょう。

この部分から予想される心の叫びコーナーの書き込みには次のようなものがあったかもしれません。

・学校でいじめられています。もう行きたくないです。

・勉強がつまらないです。就職先はどれも魅力を感じません。

・職場で嫌がらせ(パワハラ・セクハラ・モラハラなど)を受けています。

・単調な仕事ばかり任されています。正直つまらないです。

・職場で役職を任され責任と仕事量に押しつぶされそうな毎日です。

皆さんも上記のような感情を抱いたことがあるかもしれません。
もし抱いたことがあるなら歌詞の「本当に求めるものは 一体どこにあるんだ
やりたいこともできない」
とも感じたことでしょう。

自分の理想の人間関係、学びたいこと、なりたい自分などそうしたものの在り処を探求するようになるはずです。

つまらない焼き回しのような日常が続くと存在意義や人生観を見失っていくかもしれません。

時には「それはお前のせいだ」と誰かのせいにすることさえあります。
人のせいにしてしまう背景にはどんなものがあるのでしょうか。

一つには「楽だから」です。
人は自分を吟味したり原因追及しようとしたりすると疲労を感じるものです。
対して誰かに責任を押し付けることでその疲労を回避する傾向があります。

もう一つは「自身が不完全」だからです。
人は自分の欠陥を強く意識している状態でさらなる不足を経験すると、誰かのせいにしようとする傾向があります。

そうして責任転嫁を繰り返すうちに人は歳を取り、顔と心にシワを増やしていく様子を歌詞で伝えていると解釈しました。

悲観的回想

歳をとるたび 思い出すんだ
裏切られたこと どうしようもなかったこと
楽しい思い出もあったんだよな
そう思えないのはなんでかな?

ここでは年齢を重ねていくに比例して回想の仕方が悲観的になることが綴られています。

よく「思い出を美化する」という言葉がありますが、ここでは全く異なる仕方で回想していることを理解できるでしょう。

歌詞では「裏切られたこと」「どうしようもなかったこと」が取り上げられています。

信頼している家族や友達に裏切られた経験がありますか。
あるとすれば未だに心の傷は癒えていないかもしれません。
心に傷がある以上、同時期に経験したであろう楽しい思い出は顔を隠し続けるでしょう。

どれだけ回想を続けても楽しい思い出が一つも浮かんでこない場合、人は考えることすら嫌になるかもしれません。

今という現実を必死に転がる

僕らはさ 願ってもさ
叶わないことばかり愚痴りあって
そのくせにさ 燻るばかり
口だけだなんて馬鹿にするなよ
夢を知らないだけなんだよな
今が一番好きなんだよな
泥だらけの肌で渇望する
姿を馬鹿にするな

前述と似たような表現がここでも用いられています。

人が持つ誰かを批判したり燻る傾向について綴られているようです。
そうした人は周囲から「口だけ」と揶揄されることでしょう。

それに対してカンザキイオリさんは「馬鹿にするなよ」と反論しています。
反論の根拠が歌詞の続く部分で示唆されています。

「夢を知らないだけ」「今が一番好き」

この2つのフレーズはカンザキイオリさん、そして彼と同じように感じる人たちの本心なのでしょう。

夢という夢を自分たちはまだ見つけていないこと、そして今を好んで一生懸命に生きていることを訴えていると解釈しました。

その必死さが続く歌詞の「泥だらけの肌で渇望する」で表現されています。
この表現から自分たちがこれまで綺麗に生きてはこなかったこと、しかし必死にもがいてきたことを伝えているように感じます。

そうした「姿を馬鹿にするな」という強烈なフレーズは「口だけ」と自分たちを揶揄する人たちに向けられたものです。
カンザキイオリさんが人の「願い」を貴重なもとし、汚されたり軽視されることを許さないのを理解できます。

願いの価値観

願うって信じた分だけ 無様だって笑うよな
そんなのわかってるんだよ 願いたいから願うんだよ
例えば僕でいるために もしくは君を愛するために
あるいは人間らしさを噛みしめるために

ここでは願いの価値観について綴られているようです。

前述に登場した「口だけ」と揶揄する人たちは、他の人の願いを「無様だ」と冷笑します。
そうした人たちは「願いは叶わないとか実益を伴わない」という考え方をしているのでしょう。

そうした考えに対してカンザキイオリさんは「願いたいから願うんだよ」と意見を述べています。

願いの結果として、自分らしくあることや自分以外の人を愛せるようになること、そして人間らしさを実感することができるとも述べています。

「これを無様だと言えるのか」と問いただしているようにも思えます。
願いの価値観は理解できる者たちの間で光り輝くのです。

悔い無き心と選択

僕らはさ 願ってもさ
叶わない日々に妥協もするよ
見下される 馬鹿にされる
それでも這いつくばっているのさ
僕らはさ この選択が
間違いじゃないと誓って言う
「この心だけは濁せやしない」
「だからこそ僕らは叫ぶんだ」

僕らはさ

歌詞のラストでは自分たちが「今」を精一杯生きていることが示されています。

人は自分の理想を捨てて妥協しなければならない時があります。
ある人は妥協する人を意志薄弱と見下し馬鹿にするかもしれません。

それでも這いつくばって「今」を生きていると綴っています。

ここで用いられている「這いつくばって」とは地面に身を伏せることを指します。
この表現から上手に生きていると思われる人たちのようには羽ばたけないという気持ちを伝えているように思えます。

それでも自分たちの生き方と選択が間違っていないことを誓うと綴られています。
カンザキイオリさんが誓いまでした「この選択」とはなんでしょうか。

それは生涯を通じて自分たちの言葉にならない「願い」を歌い続けたこと、そして「今」に焦点を合わせて生き続けたことを指すと解釈しました。

そのようにして願い続けた心に一片の悔いも無いとも述べています。

歌詞全体には「僕ら」という表現が散りばめられています。
歌詞のラストもその表現で締めくくられています。

これはカンザキイオリさんが、他者との差異を痛感し孤独や不安を抱えるすべての人に「一人じゃない」ことを実感させているのだと思います。

人を苦手とする彼が口にする「僕ら」だからこそ、同じように感じる人たちの心を繋ぐ絆となるんですね。

この願い歌がこれからもっと多くの人たちの耳に入り、そして心に到達することを願って止みません。。

まとめ

いかがでしょうか。

MVの紹介で文集のようだと述べましたが、多くの人たちが書き綴った願いの結集だったんですね。

カンザキイオリさんの熱烈な願いや訴えを歌詞から見て取ることができました。
そして願いを軽視し否定する人たちへの鋭い見解も観察できましたね。

ツイッターでも再三に渡り、ファンの命や健康状態を気遣う内容が呟かれていました。
日頃のそうした気遣いが作品をより受け取りやすいものにし、魅力を添えているのだと実感します。

筆者の願いはコメント欄に皆さんの今の「願い」を教えていただくことです。
展示会に参加して教えてもいいよって人も是非お願いします。

カンザキイオリさんの次回作と今後の活動にも期待し注目していきたいと思います。

奥深く素晴らしい作品をありがとうございました。

ここまで記事を読んでくださった皆さんにも感謝します。
ありがとうございました。

コメントを残す